欲はほどほどに(なってくる) 食欲・性欲・名誉欲・・
食欲・性欲・睡眠欲からはじまり、名誉欲、金銭欲、物欲、承認欲・・・・何かを得たい、何者かになりたい、他人に認められたい、愛されたいといった欲求は人間にとって尽きません。大抵その根底にあるのは不足感や不安です。
何かが足りないという大前提
他人は敵であり戦わなくてはならないという大前提
自分は努力しなければ愛されず、認められないという大前提
このような不足や不安という大前提をいつも抱えているのです。不足や不安という大前提を維持している限り、当然ですが永遠に満足感や安心感を得ることはできません。もちろん一瞬の満足や安心を感じることはできるかもしれませんが、やはり一瞬です。また別の問題を見つけ、問題解決に取り組むことになるでしょう。
自分がどのような大前提で生きるかによって人生の内容は大きく変わってきます。ただし、この世の常識の範囲だけで考えるより、もっと大きな世界、さらには高次元の世界を知ることで、人間としての生き方がどのようなものであるべきかが自然とわかってくるのです。不足や不安といった前提も大きく変わってきます。全く逆の前提を”選ぶ”こともできるのです。
本来、私たちは「なにかしなければならない存在」ではありません。するべきこと、しなければならないことなど無いんです。しかし、”常識”では働かなくてはならないですし、人に親切にしなければならない、勤勉でなければならないのです。でもそれは今だけ通用する、ただの”常識”。すべて人間がルールとして決めたものです。今だけしか通用しない人間レベルのルールですから、絶対的なものではないのは明らかです。
私たちはただの人間か
私たちは、自らを頭がよくて言葉の話せる動物という程度の評価をしているのではないでしょうか。そのため他人という生き物と競争し、比較し合い、より優れた存在へとなろうとし、より良いもの・より多くの物を集めようとしています。他の動物よりも優れているようにも見えて、実は変わらないか、劣っている部分も見つけられるかもしれません。
”私は肉体を持った人間である” ”この身体こそが私である”といった認識で生きることは苦悩を生みます。ほとんどの人が不足と不安を抱えたまま生きることになります。そのため自己啓発的なメソッドが大量に出てきますし、成功を未来に設定するような”引き寄せメソッド”も出てきます。
自己啓発的メソッドで成功したとしても、真の成功と言えるでしょうか。本質的な満足感、安心感を感じられることができるでしょうか。限りない欲が次々と生まれてくるのではないでしょうか。いつまでも成長し続けなければならない存在であるといった自己認識を変えてもいいのではないでしょうか。
私たちは意識
人間として生きるか、意識として生を体験するか。どちらを選択してもいいのです。”私は意識である”という自己認識を選ぶことで、これまで問題だと思っていたことが何でもないことだと分かるでしょう。解決すべき問題などなかった。問題は自らが創り出していたことに気づくのです。
人間が物心ついたころから持っていた不足感や不安感も消えます。不足も不安も幻想であり、自らが創り出して見ていた幻想であることに気づくんです。”意識”とは”すべて”です。人間としての私も他人もあらゆる物体も動物も自然も景色も、すべてが”意識としての私”なんです。そこに不足などあるわけありません。不安などなくて当然です。足りないから欲しがるという状態が無くなります。私=すべて ですから単に選ぶだけでいいことに気づくのです。そうなれば、欲求の暴走は止まります。充足感に包まれるからです。「足りない前提の欲」は姿を消すのです。
欲を楽しむ
”意識”として生を楽しむことができれば、欲もコントロールすることが出来ます。コントロールというより絶対的な欲の必要性が無くなり、単に欲を楽しむという言い方の方がいいかもしれません。中毒や依存と言った状態になることもなくなるでしょう。中毒や依存の大前提にあるのが、不足や不満だからです。それらが幻想であることに気づくのですから、自動的に中毒や依存もなくなります。男性の場合は過剰な性欲や性行為への依存もなくなるでしょう。動物のように本能に駆られてやるような状態から、愛を感じるために単に楽しむという選択をすることができるようになります。抽象度を広げてください。人生や世界を俯瞰してみてください。”意識”として人間としての生を楽しんでください。余裕が出てくるはずです。欲に駆られて行動することもなくなるでしょう。このサイトで紹介している”オナ禁”も努力することなくできるようになります。
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